あなた自身のための、勇気ある一歩
私は今、民間企業の NTT で数学の研究をしています。実際にどういうことを目指して研究をしているのか、といった詳細については「NTT基礎数学研究センタ」の Web ページや、「NTT 技術ジャーナル特集・未知に挑む数学研究と夢」などを見ていただけるとわかりやすいと思います。
ここでは、実際の生活の様子をお伝えした後、研究者のキャリアについて書いてみたいと思います。
まず、NTT での生活の様子をお伝えしたいと思います。特筆すべきこととして、NTT ではリモートワークが基本となっており、正式な職場は自宅となります。また、研究職の場合、多くの人は裁量労働やフレックス勤務となるため、勤務時間も自由に決めることができます。また、会社員の当然の権利ではありますが、夜中や休日に仕事をする必要はありません(もし黙って夜中や休日に仕事をしていたら大変なことになります)。時差のある海外との研究打ち合わせや、休日に開催される研究集会に参加するなどの理由があれば夜中・休日に仕事をすることも可能ですが、その場合は追加の手当がきっちり支払われます。また、年休取得、夏季休暇、育児休業等についても(ルール上だけでなく実態として)フル活用する仕組みと周囲の理解があります。男性である私も、子が生まれた際、育児休業の取得を上司から強く推奨されました。男女を問わず、ワークライフ・バランスを重視したい人にとって、世界中を見渡しても理想に近い環境ではないかと思います。
リモートワークが原則ですが、NTT にはオフィスもあります。少なくとも日本国内ならどこにでも住むことができますが、オフィスに出勤する際には交通費が支給されます。研究集会への参加や共同研究者との打ち合わせのため、国内外を問わず頻繁に出張もします。
こんなふうに書くと「ゆったり仕事できて良さそうだなぁ」と思うでしょうか。実際、自由があるという点ではその通りなのですが、自分で勤務時間をコントロールできるので、いろいろな研究プロジェクトを抱えることができてしまいます。その結果、全ての時間が研究に埋め尽くされて自由時間がゼロになる、ということが往々にして起こります。また逆に、サボろうと思えばいくらでもサボれてしまう環境でもあります。怠けすぎたり、逆に仕事をしすぎて疲れ果ててしまわないように、自分の時間をコントロールすることが大切かもしれません。自分を労り、長期的に研究を遂行できるようにすることも、研究者の重要な能力だと思います。
また、当たり前のことではありますが、研究はうまくいかないこともあります(現実は厳しい)。「教育」という重要な責務を抱える大学と異なり、研究所では「研究」が至上命題のため、成果が出ない場合には満足な評価が得られないこともあります。「こうすれば研究がうまくいく」という絶対的な方法もないため、スランプを脱出するのに長い時間がかかってしまうこともあり得ます。こういう時に、ひたすら頑張って成果を出そうとするのは得策でしょうか。どちらかというと、うまくいかない研究のことは放っておいて、他のことをすると良いと思うのです。研究とは直ちに結びつかなくても興味のある新しいことを勉強してみたり、全く違う分野の研究者(NTT にはたくさんいます)と話してみたりして刺激を受ける、という真面目なアプローチもあり得ますし、休暇をたくさんとって長期旅行に行くというのもアリだと思います。
私が大学時代に何かのオリエンテーションで坪井俊先生から授けられた言葉に「楽観的であることは重要な能力である」というものがあります(筆者の記憶が頼りなので、表現が少し違うかもしれません。文責は筆者にあります)。そもそも、基本的には理詰めで考えることが大切な数学の研究を志すくらいですから、数学者には、概して根が真面目な人が多いのです。研究のことが頭から離れなかったり、逆に「あのすごい数学者は、寝ても覚めても数学のことを考えるのが大切だと言っているが、それができない自分には才能がないのでは」とか考えてしまったりします。ですが、研究者に限らず人間の能力は多様であり、その多様性こそが社会の発展を支えています。才能があるとかないとかいう、定義が曖昧で筋の悪い尺度のことは忘れて「私にもきっとそのうち、なんか面白いことができるだろう!」と思って暮らしましょう。私のような不真面目な人間からすれば、一生のうちでひとつだけでもいいから、自分で納得できるものが生み出せたら、それだけで大成功なのではないかと思うのです。
最後に、キャリアについて書いてみたいと思います。私は東京大学大学院の博士課程を修了した後、理化学研究所のポスドクになりました。その後1年だけパリ VI 大学でポスドクをし、再び理研に戻ってポスドクをし、上級研究員に昇進してから、NTT に移籍しました。
理研のポスドクも、NTT のポジションも、当時できたばかりのものでした。そして、パリ VI 大の方は「競争率が高いから多分無理だろう」と受け入れ予定の教員からも言われていたのに、無理やり応募したところ、当時はフランスでテロが多発していたことから辞退者が複数出て、繰り上がりで採用されたのでした。我ながら、再現性のない、行き当たりばったりのキャリアだと思います。
「つまり宮﨑さんは、単にラッキーだったんですね?うらやましいです」という声が聞こえてきそうです。実際、運がいい方ではあると思います。しかし成功確率というものは、そもそもチャレンジしなければゼロです。
確かに、何も考えずに未知の環境に飛び込むのは危険だと思いますが、ポジションに応募するにあたってのリスクは採用された場合にのみ発生します。なので、事前に確認すべきことは、実は以下の3点くらいではないでしょうか。
- 自分にとって、必要十分な研究時間と自由があるか
- 自分にとって、健康を維持するのに必要十分な待遇か
- 自分にとって、チャレンジする意欲を維持できる環境か
私は、上記の3条件を満たしていそうなポジションには、迷わず応募していました。逆に、世間的には「良い」とされているポジションでも、上記の条件が満たされるか怪しいな、と思った場合には、躊躇したり、実際に応募しなかったこともあります。これまで私を採用してくださった職場は、上記の3条件を完全に満たす素晴らしい環境を提供してくださいました。心から感謝しています。
私が学生時代にはあまり考えられないことでしたが、今では優秀な数学の研究者が企業に移籍したり、自ら起業したりと、その専門性を発揮し社会で華々しい成果をあげる事例が増えてきています。その方々もきっと「自分にとってこの環境はどうだろうか?」ということをしっかり考えて、前例の少ない、あるいは前例が全く存在しないキャリアへと、勇気ある一歩を踏み出されたのだと思います。私自身も NTT に移籍してまもない頃は「会社なんかに移籍して大丈夫なの?」と(親切心からだと思いますが)大変心配されましたが、私自身はとても楽観していました。自分で納得して、進む道を選んだからです。
皆さんも「自分にとってはどうだろう?」という軸を大切にして、先入観にとらわれず、いろいろな環境にチャレンジしてください。それこそが、あなたが研究者として、それ以前に人間として、幸せを掴む確率を最大化すると思うからです。
※2025年10月掲載。情報は記事執筆時に基づき、現在では異なる場合があります。
著者略歴
理化学研究所・数理創造研究センター(iTHEMS)客員研究員
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