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この文章を書いたのは?

レーゲンスブルク大学 研究員、慶應義塾大学 訪問研究員

Veronika Ertl

数学のおかげで出会うことが出来た私たちの興味深く美しい世界(Part 1)

私の物語はバイエルン・アルプスにあるウンターアンマーガウという、ミュンヘンから1時間ちょっと南にある村で始まります。 そこはとても美しい村で、春には木々や草原が花であふれ、夏にはそれらが深緑に変わり、秋には美しい紅葉、そして冬にはたくさんの雪で包まれます。 日々の生活は自然の周期、そして時にはその気まぐれによって決められます。 この小さな谷の住民たちは時には辛いこともありますが、この自然を中心に生活を考え快適に暮らすことを学んできました。私たち子供はお手伝いしなくてはいけないことがたくさんありましたが、私たちにとってそれはとても気ままで解放された時間が流れていました。森の中を駆け巡り、数え切れない本数の木を登り、山から流れてくる、身を切るような冷たい小川で水浴びをし、そしてもちろん冬にはスキーをすることが出来ました。 しかし夏のあられの嵐に農作物と屋根を全滅されたり、次の朝学校に行けるよう寒い夜中に起きて雪かきをしなくてはいけなかったり、馬の水を汲み出すために氷に穴を開けなくてはいけなかったり、と生活の厳しさを思い知らされることも時にはありました。

小学校を卒業すると、私たちは皆中学校に通うため隣町まで行かなくてはなりませんでした。それほど遠くはなかったのですが電車がとても遅く、片道1時間以上かかりました。そして冬に雪が積もりすぎると電車が止まり、そのような日はもちろん大喜びで学校を休みました。

この学校で私は、全く新しい世界に出会いました。外国語を学び、生物、地学、地理の基礎、そして後に私をより魅惑した、物理と化学との出会がありました。そしてもちろん数学との出会いも…どちらかというと計算の仕方などを学ぶ事が多かったですが。私自身は努力してクリエイティブな解決法を考え出したりする、手応えのある難問を欲していました。

初めて「本物の数学」と出会ったのは、フェルマーの最終定理について卒業論文を書いた時です。フェルマーの最終定理についてのドキュメンタリーをテレビで見て興味を持ち、先生を説得してこのテーマを選んだのです。

発見した数学があまりにも興味をそそったので、大学で数学をもっと学ぶ決心をしました…しかしそれには問題が一つあったのです…大きな町、すなわちミュンヘンへ引っ越さなければいけなかったのです。それまでは自分の村での生活にとても満足をしていて違う場所での人生、特に山が周りにない町での人生など考えられませんでした。しかし私の数学をもっと学びたいという願望の方が私の不安より強かったのです。

ミュンヘンに引っ越してすぐ様々なカルチャーショックを受けました。あまりにものたくさんの人々に圧倒され、複雑な地下鉄の駅で何度も何度も迷子になりそして、野菜と果物であふれる畑がなく何もかもお店で買わなくてはならいこと、でも次やってくる雹の嵐の心配をしなくていいことで、どんなに日々の生活が違うかということを発見しました。そしてあまりにも多くの人々が、たくさんの自然の営為に気がついていないことに驚きました。10㎡ほどの小さな部屋に閉じ込められ、永遠と続く森へと飛び出していくことが出来ない生活に慣れるのにも苦労しました。

それにもかかわらず大学の授業はとても面白く問題を解くことは大好きでしたが、皆の前で発表することは緊張して苦手でした。クラスメート達は皆賢く世間慣れしていたのに対し、私は牛の乳を絞ることが出来ても地下鉄で正しく移動することが出来ない、田舎から出て来た小娘のようでした。

しかし次第に私も都会での生活を喜んで受け入れるようになっていきました。大学で出会った友達と数学や哲学の議論を楽しみ、さらに大学のスポーツセンターで器械体操を始めました。時が経つと辞めてしまったり、別の道へ進んだりするクラスメートも増え、クラスはどんどん小さくなっていきました。

2年経ち初めての口頭試験が終わると、私達は1年間の海外留学へ応募する機会が与えられました。13の大学があるパリは数学、特に整数論の本拠地であると聞いていました。私はその時点で色々な分野の数学の授業を受けていて、まだどの分野に一番興味があるかは決めかねていました。しかし純粋数学を専攻したいということ、そして昔から整数論に愛着があったので、留学先としてパリを選択することは良いアイディアだと思いました。高校でフランス語の勉強をしていたので言葉の壁は心配していませんでしたが、こんなにも遠くに引っ越すことを恐れ密かに選ばれないことを願ったりもしました。

しかし数ヶ月後、気がついたら私は大きなスーツケースと共にミュンヘンからパリ行きの夜行列車に乗っていたのです。列車の中で引退したアーティストだと言う帰国中の素敵なフランス人の女性に出会いました。彼女はなんと、パリに到着後、私を寮まで案内してくれ引っ越しの手伝いまでしてくれたのです。今でもパリに行くたびに彼女に会いに行く時間をつくるようにしています。私の寮は、パリの南部にある”国際大学都市”という大きな公園の中にあるたくさんの寮の中の一つでした。1920年代に建てられた建物で30人ほどの留学生が住んでいました。皆大体、研究したり寝たりする小さな個室を持っていて台所は共有、そして三つの各階に一つずつトイレとシャワーが付いていました。そのことで困ることは一度もなくむしろ、そこでは良い思い出がたくさん出来ました。私たちは祖国のことや好物について語り合い、お互いの喜びと悲しみを分かち合いました。

私が学んだ大学は パリ北大学(パリ第13大学)で、パリの北部にありパリの中でもちょっと危険な地域の近くにありました。時々騒動が起き車が燃やされたり、公共交通機関のストライキなどが起きました。多くの学生は大変な生い立ちを背負い貧困から抜け出すために必死で働き勉強をしていて、パリの中心部にある大学とは雰囲気が全く違いました。キャンパス内にちょっとしたクライミングウォールがあり、お昼休みなどに自由に登ることが出来ました。ここには学生だけでなく教授たちも集まり、様々な人たちと出会うことが出来た場所でした。この年一番の思い出は、このクライミングウォールで出会った友達と学年が終わった後フランスの南部にロッククライミングの旅に行ったことでした。

パリ北大学(パリ第13大学)での修士コースの授業には、私の他一人しか学生がいませんでした。にもかかわらず、私たちだけのために素晴らしい授業をして下さった先生方には今でも感謝しています。私は与えられた課題を研究図書室で解くことが大好きでした。

パリにある他の大学で授業を受けることもありました。一番印象深かったのはオルセーにある パリ大学(パリ第11大学)での授業でした。そこにいたヨーロッパの人は私一人で、他の皆はアジアの人たちでした。ほとんどの学生は中国出身で、先生はベトナムの人。一緒にランチを食べに行った時、皆が中国語で会話をしていて自分も理解出来ればな…と願ったりしたものでした。

パリでの2学期目には、「非公式修士論文」を書く機会を与えられました。指導教員が週一回、パリ中心部の図書館やカフェなどで指導してくれました。彼からはたくさんの美しい数学と、フランス語の数学用語の詩のような美しさと、そのよさを教えてもらいました。

ドイツに帰国する頃には数論幾何の道を進む決心がついていました。ミュンヘンに戻り学士課程を終えながら、私の希望分野の博士課程をどこで研究するかを検討し始めました。パリに戻りたいという希望も大いにあったのですがパリでは外国人として金銭的援助をもらうことが非常に難しいとの事でした。大学の担当者はアメリカの大学へ行くことを勧め、私の希望分野に合う大学を探す手助けをしてくれました。

(Part 2 へ続く)

※2017年10月掲載。情報は記事執筆時に基づき、現在では異なる場合があります。

著者略歴

レーゲンスブルク大学 研究員、慶應義塾大学 訪問研究員
Veronika Ertl
あだ名:Vroni(フロニ)
数学の研究分野:数論幾何
数学以外の興味:器械体操、自然と動物、特に犬

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